甲子園優勝投手、ひっそりと・・・。

昭和59年、第66回夏の全国高校野球選手権大会の優勝投手の石田文樹氏が、ガンと闘いひっそりとこの世を去った・・・。僕の一つ下の年で同世代と言う事で当時は注目をしていたものだった。現在、30代から50代あたりの方や、高校野球ファンは「おおっ〜、ああ〜あの投手か〜」などと思い出すに違いないはず。あの木内マジックこと現・常総学院木内幸男監督の取手二高時代の最後の教え子であり初全国制覇の大原動力となった投手。プロみたいに分業制になってない高校野球の時代に絶対的存在の大エースとして3度の甲子園出場を皮切りに経歴で言えば、プロ入りも噂されながら早稲田大学に入学も水にあわず中退し、社会人野球の名門・日本石油都市対抗出場の原動力となり再びスポットライトを浴び89年に現・横浜ベイスターズ(元横浜大洋ホエールズ)に入団。94年に引退し実働6年で、主に中継ぎで25試合登板1勝0敗。引退までの3年間は1軍登板もなく、甲子園優勝投手としては物足りない成績で現役プロ生活は終わったが、打撃投手として球団に残り影で選手を支えた逸材は、元甲子園優勝投手のプライドとの闘いだったに違いないが、逆にマネ出来る事でもないし、石田さん特有の野球への愛し方だったのかも。前から思っていたが球団別ではあるが裏方の情報が薄すぎると思う。病気が病気だっただけにいつ頃まで打撃投手をしていたか定かではないが?。当時、僕は甲子園で投げている試合を全部ではないがそれとなく機会があり見ていて、決勝だけははハイライトでしか都合で見れなかったが、あのKKコンビ、桑田・清原が2年時で一番ノビノビとして戦っていた印象が残るPL学園を破った闘志あふれるピッチングを思い出す。球界関係者にも印象を残し、解説者の関根潤三氏がルーキーの頃テレビ解説で、「どこに行ってしまってたんだろう?と、気になっていた」と言うコメントを思い出している。今年も夏の甲子園予選が始まったばかりなのに、石田氏はどう思って他界されたのだろう・・・第3者的・個人的には、夏を最後まで過ごさせてやりたかったなぁ・・・。合掌