少年時代の顔のまま・・・。

プロ野球・西武、ダイエーソフトバンク(プロ通算17年・実働11年)で活躍し、独立リーグで兼任選手(1年)として、現役生活に別れを告げた宮地克彦氏について、少しだけ語りたい。
香川県尽誠学園から89年秋ドラフト4位で西武ライオンズに投手として入団するも4年目途中から打者転向。
ケガで若手切り替えの風にて戦力外となり、合同トライアウト後テストを受けSDホ―クス移籍後、規定打席到達まで16年もの歳月もかかったが苦労がむくわれオールスターにも選出され、リストラの星として話題を呼んだ選手であった。
西武時代に100試合出場が1回あっただけでほとんど1軍半の選手ではあったが、球団事情だけでなく簡単にクビに出来ない潜在性や人間性があると思われた印象がある。3度目の合同トライアウトもそんなに悪いイメージはなかったハズだが、時代は求めていなかった・・・。特に楽天が取っていたら面白いと一瞬思ったが、元巨人(現大リーグパイレーツ・マイナー契約)の桑田も取らなかったし若い球団は時代の選手を取り始めていた・・・。
だが、古巣SDホ―クスが育成コーチとしての復帰のオファーを出し悩みながら就任した。
西武時代の14年で引退が、誰が見てもおかしくないのだがその後スター選手にまで登り詰めた選手は異例に等しい。
その後の独立リーグでの根性に執念が素晴らしいし、苦労人好きなSDホ―クスにはもって来いの人材であった。
野球が好きで好きでたまらないと言う言葉の裏の、現役に未練を殺した決断は、未来のプロ野球に取って小さな財産でもある。過去には、日本ハムで渡辺と言う内野手が10年以上かかり、レギュラーとなったが若手切り替えのあおりにてコーチ就任の経過があった。
こういった人は世の中で選ばれた人間の一人であるし、たまたまTVで見たドキュメント番組のハキハキとしたコメントは、89年夏の甲子園大会で変則左腕から繰り出される素晴らしい投球で準決勝進出も敗退後、「大阪代表の尽誠と言われ続けたけれど県の代表として、ここまで来れたので悔いはない・・・」と、コメントしていた宮地少年のままであった・・・。